ただいま。
エストニア〜ラトビアの田舎道。
緑と青と黄色の田舎道に無条件にご機嫌にされながら走っていると、こんなことを思う。サングラスの裏で流されていく風景は、いわゆる日本で言う "リゾート地"のよう。だけど 本来"リゾート地"とは"人間が作ったものだろ"なんてさりげなく風のように誇示される。それほど完璧なランドスケープで家々がぽつんぽつんと佇む。
奥まで火が入る開かれた赤松の林と、白樺の緑、オークの新芽。
家と緑と道と、家と緑との距離が "それが気持ちイイ"、とあたかも最初から知ってたように形成されている。最初に戻るが、誰かとてつもなくデキる設計屋が設計したような、リゾート地みたいに見える。
だが誰も設計していない。
生きる糧があって、生活があって、地の力とかがあって、そこに生活ができてたぶん今の形になっている。
そう、自然と仲良しな感じ。うらやましく見えた。
その全ての家々にたくさんの薪が積まれている。
その薪はすべて周りの林と重なる。ホワイトバーチ(白樺)、アルダー(ハンノキ)、パインやスプルース(松類)、アッシュ(タモ)。
俺が好きな教科書の中で2年以上前に書かれた "I have a dream" という中に、こんな一節があるのを思い出した。(引用させていただきます)
いまの文明が崩壊でもしない限り、現代は昔のような火を焚く暮らしに戻ることはなさそうだ。でも環境への意識の高まりや自分の暮らし方について、本当の豊かさを手に入れようとすることへ「前進」することはあり得るだろうと思う。
なんでもかんでも経済優先で効率的でなくていい、得しなくていい、消費も少しでいい、人々はもっとおおらかにゆったり仕事して、知恵も甲斐性も感受性もたっぷりに四季の暮らしを楽しんでる。
この作者さまがいうように、感受性の部分が無ければこういう暮らし、そしてこういうコミュニティづくりにはならないんだろうと思う。
"木"でいうと、あるものを利用するエストニア。あるのに利用しないで外から買うニッポン。自然があってそれと仲良くできるエストニア。なかなか仲良くできずにいるニッポン。
教科書の最後のほうにはこう言葉がある。
薪ストーブは使い易く安全で安価、どの家庭のリビングでも当たり前の光景だ。昔で言えば釜戸や囲炉裏、現在でいう炊飯器やキッチンのように。
薪ストーブを活用した住宅ができる。ペチカのように家と一体化した薪ストーブ住宅が建つ。オンドルのような、あるいはソーラーと連動するものもある。
熱も排煙も取り出して活用し発電だってする。エコファンはとんでもなく進化する。
贅沢品・男の逸品として趣味の薪ストーブも存在し続けるが、薪ストーブは暮らしだ。生まれた時から薪を焚いて火のある暮らしで育つ、世の中はそういうものであるといい。I have a dream.
エストニアはこの著者さまが2年以上前に妄想した夢が、そのままではないけれども相当高いレベルで現実だった。
そして我が国ニッポン!
食べ物は最高だし、トイレは綺麗だし、ティッシュは柔らかいし、洗濯機は使いやすいし、豊かな風土はホントにどこの国にも負けないと思う。
でも薪ストーブは負けている。
今、自分らが外国の同業者のとこへ行って色々話したりする構図が、いつかは、俺らがしたように日本にヨーロッパの若いストーブマンや煙突掃除人が勉強しにくるような、国になりたい。俺が勝手に呼んでいる薪ストーブ第二世代では無理だろう。その後の世代、さらにその後のストーブマンたちがやってくれるその礎になりますように。I have a dream.